栃原さんとPAIR
画家がいま、絵に描きたいコトが二つある。さてどうするか?試しに一枚のカンバスにその二つを描いてみる。うまく納まったのなら実はどちらも描くに値しないものを描いたに過ぎない。たぶん。
そう、一枚の絵に描くことは一つ。とはいっても、絵の中は、いつだって二つどころか無数のものがひしめいている。絵具、筆触、形、思いの数々が重なり、隣り合わせ、鍔迫り合いを繰り返し、描いては消しの果てに点々と浮島か孤島のようなありさまだ。そんなカオスも少し離れて眺めると、リンゴや人に見えるのでぼくらはつい絵を見たつもりになっているが、それは画家も鑑賞者もそれと似たようなモノをいつかどこかで見たから解るのであって、そんなことはたいしたことじゃない。繰り返し描かれ見飽きた事物の離合集散が絵というコトになっているかどうかだ。ここに懸っている。それを二つと言うなら、二つごと、各各として二枚の絵を描くしかない。それを取り持つのは「縁」。で、「ペア」が生まれる。
栃原比比奈さんは、現在美学校で長谷川繁さんの教室で学んでいるがそんな絵を描く画家の一人だ。
顔と顔じゃない絵が並んでいる。人の顔とピッチ(サッカー場)とか、人の顔と夜や昼とか、人の顔とX線写真なんてのもある。顔の絵はお約束なのだろうか。でも栃原さんの絵を見て“いろいろな顔がありますね”、“いろいろなものをお描きですねえ”では終わらない。
栃原さんはこれらの作品に『mirror metaphor』と言うタイトルを付けている。さらにその絵に描かれている状況?様態?を暗示するような副題を配している。二つの絵は、何らかの対応関係にあるということなのだろうか。鏡を見て映る「わたし」との対応物として「これ」なのだろうか。
対応関係は双方が向き合うまさに鏡像の関係だ。栃原さんは人が鏡に自分の顔を写すように顔の絵を描く。さらに自分が見た顔以外のモノ(場所とか物とか)をもう一枚描く。この時、絵に描かれた顔と顔じゃない絵はどちらも描かれた各各一枚の絵として等価だ。「わたし」によって描かれた二つの異なる絵がともに各各を充実させているということだ。次に描かれた絵同士を壁に並列する。これは「わたし」と絵が向き合って描かれた二つの絵を「わたし」が見終わった後にもう一人の誰か(ここでは鑑賞者)に向けて見せている。筆者はいまその二枚の絵を見ているのだ。向き合う者(モノ)同士の態勢の入れ替わりがあってけっこう複雑だなと思う。タイトルをなぞるように絵の道順を辿ってみたけれど、いっそ副題だけにするか無くした方がよい気がする。二つの絵のワケと描かれているイメージの豊かさを楽しむ前に近道を照らされてしまわないかちょっと心配。
これを見た、あれに触れた、こう思う、「わたし」(栃原比比奈)が「この顔」を描き「ピッチ」を描いている。水彩、油彩それぞれの効果とともに絵だからこそ可能な位置や距離の反転を遊んでいる。で、その絵を互いに隣に並べてみた。それだけのことだ。ただそれだけのことが、へたな思わせぶりや駆け引きなしに一つコトとして描かれた二つの絵だから並び立つ。二つの絵をちゃんと描いたことへのご褒美だと思う。なので、“関係性”なんて、なにも言ってない屁みたいなものではなく、ここはきちんと「PAIR」と言いたい。
描かれた二つの絵からこんどは栃原比比奈さんが証明される番だ。
O JUN
2023年7月7日
O JUN
略歴
1956年、東京都生まれ
1980年、東京芸術大学美術学部油画科卒業
1982年、東京芸術大学大学院美術研究科油画専攻修士修了
1984年、~85年スペイン(バルセロナ)滞在
1990年、~94年までドイツ(デュセルドルフ)滞在
2009年度から東京芸術大学美術学部油画科准教授
不明年度から2021年度まで同教授
2022年度から多摩美術大学絵画科油画専攻客員教授、在任中。 (wikipediaより)